hello,辻原です。
もうアツがナツすぎて、脳の活動と仕事に支障をきたすレベルになってきましたね
1時間外にでていると頭痛がするレベルです。
みなさま熱中症にはお気をつけくださいませ。

最近寝ながらBASEMAENT TIMESを読んでいて、この歯切れの良い毒文に打ち震えております。
美しい毒文がクセになるし読みながらyoutube必要だしで、貴重な睡眠時間が侵食されて辛い。なんでこんなにエモく歯切れがいいんだ文豪かよ

ほんとうはけっこういいことを言うブログエントリーを準備していたけど、最近あった個人的おこ事件に対して個人的に毒づきながら、自分のスタンスを記しておきたいと考えています。

こんな愚痴のようなエントリって会社のためにも自分のためにもならないので、どこかで消すかもですが。

「どうやったらデザイン上手くなりますか?」っていうよくある質問に対するおこ

最近駆け出しのデザイナーさんから「WEBデザインってどうやったら上手くなりますか?」と聞かれます。そりゃ「WEBUIデザインだけやってっからうまくならないんだよ」って思うし「上手いWEBデザインってどんなものだと思ってんの」ってうっかり詰めたくなるのを抑えて、とりあえず「いろんな人が作ったのを見たら」って言っています。が、この回答では1割も正解ではない。

「どうやったら上手くなるか」っていうのはいろんな意味を含んでいるようで含んでいなくて「上手くなって何を実現したいか」が先に来なければ適切なアドバイスなど不可能だ。それがあればきちんと答えるよ。

辻原は社会人1年目に「google型でない検索エンジンあるいは認知インターフェースの開発は可能か」という研究課題を自分で設定し、その研究のためにあらゆる書籍を読みUIを研究したり制作していました。1日に2冊ずつくらい本を読んでいた時期で、当時月給13万円だったんだけど、書籍代に2万捻出したり。23歳の時だったかな。なつかしい。

私が当時デザインスキルを習得をする目的は明らかで、上述した「google型でない検索エンジンあるいは認知インターフェースの開発は可能か」というテーマに基づき、インターネットインターフェースの拡張のために自分のデザインスキルをアップさせるというものだった。その目的があればやることは簡単で「歴史・文脈の理解」「理論的可能性の模索」「過去~現在のインターネットインターフェースの構築スキルの習得」「ほかメディアのインターフェースの理解と転用可能性の模索と転用スキルの習得」だ。

それらの理論的あるいは技術的スキルの向上とアウトプット精度により私は「デザインが上手くなった」ことが自分で判断できたし必要な自己修復判断もできた。

ただやみくもに「WEBデザインが上手くなりたい」っていっても「なんのためだよ」って思うし目的が明確でないものに対して適切なアドバイスなんかできないから、質問の仕方かスタンスを変えて欲しいと、そういう人に対して私はいつも思っている。

作りたいだけなら、ずっと作ってたら?目的のないソレが何になるのか知らねーけど。(個人的にはものをつくるという行為の自己目的化が一番かっこ悪いと思うよ)

「ものをつくる」という行為の自己目的化のかっこ悪さについて

WEBデザインがやりたい」っていうデザイナーに限って「なんでやりたいの?」と聞くと「好きだから」「楽しいから」と返事がくるので、私はその度に蹴り上げてやりたい気持ちになる。その「好き」「楽しい」のもっと深い部分とか彼らのアウトプットの如何についてはよく知らないが。

私は基本的には「ものをつくる」ために「ものをつくる」ということは非常にかっこ悪いことだと考えていて、表面的な美しさだけを求められることはナンセンスの極みだと思っている。それによって得られるものも、もちろんたくさんあるだろうけどね。

私がそう考える理由の一つに、絵画制作の経験がある。私は幸運にも幼少期の早い時期からあらゆる絵画制作の機会に恵まれたのでいろんなメディウムを用いた絵を描いてきたけど、なんていったってとにかく最高に油画が嫌いだった。コスパが悪いからだ。油画のカンバスは一般的なB4くらいのサイズで1500円か3000円くらいだった。また油画の絵の具のチューブは11000円くらいだし、筆も1500円、筆と絵の具をならすためのオイルは3000円、パレットは5000円、準備にも片付けにも非常に長時間を要する。さらにまた絵画教室の月謝は10000円くらいだったろう。

当時のお小遣いは500円だったので、新しい絵を始めるための真っ白なカンバスを買うたびに「好きに絵を書くための投資」がいかにデカイかに苦しんだものだ。もちろん小学生なので傑作が書けるわけではなく、徐々に上手くはなるが「この絵を描くことになんの意味があるのか?ジャンプ読んでた方がいいんじゃないのか?家計の負担になってまで絵が描きたいのか?」とわりかし真剣に悩んでいたことを今でも鮮明に覚えている。

買ったばかりの真っ白なカンバスは1500円だが、私が1500円の筆で1000円のチューブから出した絵の具を塗布した瞬間、その価値は0円になるのだ。時間というコストをさらに上乗せしてもその価値は0円。なぜならば小学生が絵画教室で描く絵とは「絵が上手くなることが目的であり、そこに再現されたものにはなんの意味もない」からだ。この絵画は習作にすぎず、誰にも価値を再分配しない。(上手くなったことで母は喜んでくれるかもしれないが、そういうことではない)

この苦しみと戦うことが「ものをつくる」ことであり、そこから逃れることは絶対にできない。
それが当時絵画教室で学んだもっとも重要で尊いことだ。

趣味ならばいいと思う。ものをつくることが好きで。
ただ、仕事にしちゃいけない、仕事はシビアに生産性や品質を追求し、願い、希求すべきだ。
どちらも崇高だが、後者は価値を生み出し、さらに再分配しなければならない。エコシステムの一部としての生産行為だ。与えられアサインされた仕事において「価値の行き止まり」を生み出してはいけない。

「で?なんでWEBデザインをやっているの?」という私の問いは、あなたのデザイナーとしてのコミットメントとスタンスを訊ねている。「好きだから」じゃないんだよ、小学生か。

世の中には「好きこそものの上手なれ」という便利な言葉があるし「好きなことを仕事に」という妙にポジティブで人間味に溢れた唾を吐きかけたくなる風潮があるが、これもナンセンスだ。嫌いになったらやめるのか?バイトか。

「価値を生み出す」ことにコミットしない仕事に未来はあるだろうか?
なあ、あの26歳のWEBデザイナーよ。
彼女がデザイナーとして、いい仕事をしていることを心から願う。

あと、ここまで文章を書いて絶望的なことに気づいたけど、私は昔から「ものをつくることで表現したいこと」は皆無だ。どうやっても自分がコミットすべきだと考えるのは課題解決の部分だ。はやくグラフィックデザインに拘泥し、されるをやめて、一人前のデザイナーたりたい。
ただ、最後に、保身のためにいうと、私は美しいものが好きだし、美しいものをつくるのに異常な熱意と喜びを感じている。あらゆる美しいもので満たされれば世界はある程度幸せになれるし、人類は前進できるだろう。ただ悲しいことに、私はそれに対して「美しいものが価値循環を生み出すことができる」と明言することはできない。美しいだけじゃだめなんだ、残念ながら。しかしまた同時に幸運にも、それはインターフェースの一端にしかすぎないという可能性を秘めている。

私はよい課題解決による、よいデザインがしたい。
デザインによってあらゆる世界の謎や課題を解決したい。
それによって、新しい未来や可能性を見てみたいんだ。
そのために、思想し、修練し、苦しみ、創造したい。

あなたも早く、この仕事の可能性と価値に気づくといい。
そしたらまた話をしよう。

thank you. I love you.